南部会館のある内丸一帯は、中世以降八戸の要所のひとつでした。
南北朝時代に根城を築いた南部氏がこの地方を統治していた頃は、根城と新田城(現在の新井田)、そして中館と呼ばれていたこの場所の3館で敵に備え、「三館一城」のかまえを為していたと言われています。
根城南部氏が遠野に移封になった後、八戸は盛岡南部氏の支配となりますが、この時に根城の町家を三日町・十三日町・二十三日町に、新田の町家を八日町・十八日町・二十八日町に移住させて現在の八戸市街の基礎ができたと言われています。
また、三日町と八日町の間から城への中間に盛岡の城代屋敷があったと言われ、現在の市庁舎前のロータリーにある高野槇は、城代屋敷の庭にあったものだと言われています。
寛文4年(1664年)に設立された八戸藩では、新たに城を築くことなく既にあった盛岡藩時代の建物を引き継いで城として使い、徐々に城としての整備を進めていきました。
現在の南部会館は二の丸の一角で、寛政年間には角御殿と呼ばれていたことが「藩日記」からうかがわれます。
寛政4年(1792年)、藩は藩士の煙山冶部右衛門にこの建物に入居することを命じましたが、当時この屋敷は城の大手御門に近く、藩主一族や重臣の屋敷地になっていました。門はその5年後に建てられますが、旧南部会館の一部もこの頃のものであったと考えられます。
明治時代になり、旧藩主が知藩事となり、この屋敷で政務をとっていたことから、「御内務」と呼ばれていました。
その後南部家の私邸として使われていましたが、昭和25年に三戸郡町村会のものとなって集会施設として利用され、昭和47年、八戸市に移されました。